そうだ、森先生に聞いてみよう エピソードⅡ

#01 自由でない遊びって何だ?

#02 好奇心を潰すな!育てよ!


一万坪の広大な日本庭園がある広島市の料亭「半べえ庭園」に、広島大学附属幼稚園で森先生と名コンビだった仲渡規矩子先生にお越しいただき、紅葉した約千本のもみじを背景に、保育談義をしていただきました。

美しい庭を愛でながら和やかに、また笑いの絶えなかった座談会の様子をシリーズ掲載してまいります。

(2020年11月26日収録)




対談場所/半べえ庭園 名翠苑 光風の間(広島市南区)

対談出席者/森 楙先生、仲渡規矩子先生、坂井くみ子園長、堀江宗巨大園長




●森 楙(もり しげる)

日本の幼児教育学者、教育社会学者、広島大学名誉教授。
「遊びの原理に立つ教育」「あそびを育てる(保育技術シリーズ)」「遊びと発達の心理学」など著書・訳書多数。


●仲渡 規矩子(なかと きくこ)

元広島大学附属幼稚園副園長、安田女子短期大学助教授。
共著に「保育内容・環境」「あそびを育てる」「ほいく・こども・えほん」他。


●坂井 くみ子(さかい くみこ)

認定こども園くすの木園長。


●堀江 宗巨(ほりえ むねお)

くすのき保育園・認定こども園くすの木 大園長、株式会社くうねあ代表。




#01.自由でない遊びってなんだ?


堀江大園長(以下「堀江」)「森先生と仲渡先生は広島大学附属幼稚園(※1)の園長、副園長をされてたとお伺いしてますが、お二人が最初に出会われたのはいつですか?」

森楙先生(以下「森」)「広島大学の幼研施設(※2)に、助教授として採用されたのは、昭和46年4月ですが、仲渡先生たぶん昭和49年か50年くらいじゃないかな?」

仲渡規矩子先生(以下「仲渡」)「49年かもしれませんね」

森「当時千田町の附属幼稚園の二階に私たち大学教官の研究室があったので、幼稚園にはしょっちゅう出入りしてましたね。一階の幼稚園の保育室と遊戯室には、天井にカメラが設置してあって、幼稚園での保育活動は全部二階の共同研究室のオープンリールの録画機で録画できました。幼稚園の先生は、盗視されているみたいで嫌だと言ってましたしね。また保育活動の映像を分析する研究方法は、当時まだ確立していませんでした。昭和44年頃、全国的な大学紛争で教育学部では教授会が開けないので、附幼の遊戯室で会議をしていた録画は、見たことがありますね。私が、まだ立命館大学にいた頃ですが。あれが残ってたら歴史的な資料だけどね、東広島に平成元年に移転したので、その時処分したのじゃないかな。残っていたら大学文書館に残すべき第一級の史料だと思いますよ」

堀江「ホームページによると二階建ての幼研施設ができたのは昭和42年、今から50年以上前ですか!…その頃にビデオ撮らなくちゃいけない何かあったんですか?」

仲渡「研究ですよ。例えば私にマイクがついてて、子どもたちの入園の日から一か月ぐらい私の子どもたちへの言葉や会話を全部録音されて、それを分析、解析して教育学会で発表されたこともありました。カメラは就任の時にはワォーと思いましたが、子どもたちが登園したら全く気になりませんでした。呑気なので」



森「附属幼稚園は最初、幼研の研究園としできたんですよ、だから実験的なことをずっとやってる。最近も附幼は文部科学省の研究開発学校に指定されたりしてね、ユネスコスクールにも登録されたよね」

堀江「森先生も仲渡先生も本当に当時から保育現場の先端を走ってきたんですね」




堀江「それでは早速ですが、保育談義ということで今日はお越しいただいたんですが、事前にテーマを考えてきてまして」

森「テーマはたしか4つあったのかな?」

堀江「はい、まずは、昔から森先生が言われていた『主体性を育みましょう』とか『遊びが大事ですよ』とかが今でも大きなテーマになっているんですよね。うちでも現役の保育士さんから『子供の主体性を育む保育ってどういうものなんですか?』っていう質問が結構あるんですね。」

坂井くみ子園長(以下「坂井」)「自主性と主体性の違いとかもお聞きしたいです」



森「違いということではないけど、もっと根本的な話、実際に子どもの行動をどうするか、活動をどうするかと、それが大事なんじゃないかなと思うんですね。

と言いますのは、結局主体性も自主性も、個人の自由ということにとても関連があるんです。

自由がなければ主体性も自主性もありえないわけです。幼児の場合ですと、ほとんどの生活が遊びです。だから子どもが本当に自由に遊べるなら、それは子どもに主体性があるということでもある。一人でも、あるいは友だちと一緒にでも、自由に遊べるかどうか、そこにかかってるんじゃないかなぁと思います」

坂井「本当に自由に遊んでるか?…と」 

森「そう、で自由というのは結局どういうことかと言うと、遊びの大前提条件なんですね。

だから自由がないところに遊びはないわけで、保育界には『自由遊び』という業界言葉がありますが、あれは非常に自己矛盾した言葉なんですね。自由遊びがあるということは、自由でない遊び、つまり『不自由遊び』もあるということになるんですね。自由でない遊びってなんだ?と。

自由でない遊びというのはありえないわけです。遊びは全部自由でないと、それは遊びとは言えない。

自由でない遊びというのは誰か規制してるし、命令してるし、指図してる。大人が上から課題を与えてるということが自由でない遊びですね。

だから幼稚園・保育園でよく「自由遊びの時間ですよ」と言うてますけども、それはおかしいですよね。設定保育の場合、それが出てくるわけです。

設定保育だと、その時間は先生が中心で先導し、先生の監督・指示・命令によって、子どもたちの活動を決めて、同じ活動を同じ時間に一斉にやらせる。そこからはみ出す子は、落ちこぼれみたいな扱いを受ける。そういう先生がわりと多いですよね。つまり設定保育が多いと、それに伴って子どもの自由が少なくなる。幼稚園教育要領では、子どもの遊びを中心にした幼児教育を謳っているけれど、現実はそうでない。

これは日本だけではないみたい。イギリスの幼児教育で膨大な記録に基づいて、キングという人が本を出している。私が翻訳した『幼児教育の理想と現実』という本ですが、幼児教育の現場では、遊びは単なる理想的なイデオロギーに終わっていると、手厳しく批判しています。

設定保育をしている先生でも、設定保育の時間が終わり、昼食が済むと、昼遊びの時間ですよ、と遊ばせてますが、それは放任しているわけで、本当に子どもたちが選んだ遊びではない。保育のカリキュラムにも入ってないわけだから、うまく対応もできない。これでは、幼稚園教育要領で強調している遊びとはいえませんね」

仲渡「子どもたちが、いわゆる自由に主体的に遊んでいる時は、設定よりもはるかに一人ひとりを、その人間関係を、全体を丁寧に見て、何もしないことを含めた適切な援助と次の環境構成を考える必要があります。

放任どころではありませんね。年齢に沿った目的とカリキュラムも踏まえてですね」

森「私は戦中派で、田舎の村でしたから、幼稚園も保育所もなかった。近所の子は、小さい頃から、お兄ちゃんお姉ちゃんにおんぶされたり、手をひかれたりして、近所の遊び仲間集団の中で、いろんなことを学んでいる。特に運動能力や社会性が、友だちとの遊びの中で育っていく。私は両親が教員をやっていたので、おもにお婆ちゃんに育てられた。

もし私が、乳幼児期から近所の遊び仲間集団に入っていたら、私には全然違った人生があったんじゃないかなと。もしかしたらプロ野球の選手ぐらいにはなれたんじゃないかな。(笑)政治家になったかもしれないと思いますよ。といいますのは、私は小学校から体はクラスでも、一、二を争うぐらい大きかったし、足も速かったので、2年生ぐらいからは運動面ではトップクラスだった。地区対抗のリレー競争に、2年生の時から選ばれてた。足の速い子が、同じ地区にいたけど、バトンタッチが下手だった。バトンタッチは知性と関係があるんですね。だからただ走るのが速いだけじゃなくて、バトンタッチがうまくないとオリンピックでも勝てない。400メートルリレー競技に強い日本の陸上選手は、知性が本来高いと考えてもいいですね。…あれ話が変なところにそれましたな」

堀江「設定保育が課題であると」



森「そうそう、そういうことで設定保育というのは、だいたい知識と技術を教え込むためのものでしょ?しかし幼稚園・保育園の本当の役割は、その対人関係能力をどう高めるか、現在強調されている『非認知的能力』をどう伸ばすかが大事ですね。これは友だち同士が集団で遊んでこそ、学べるものなんです。設定保育で、先生の命令や指示だけでは育たない。子ども自身が、自分で考え、自発的に活動することで培われる能力なんですね。幼稚園は、今はすっかり衰えてしまった地域の遊び仲間集団が持っていた教育機能の代わりをしないといけないと思いますよ」

堀「本当に子どもたちって遊んで成長してますよね。では仲渡先生からもお願いできますか」


#02.好奇心を潰すな!育てよ!

仲渡「自主性と主体性ってことでいうと、やるべき事があってそれをさせられてするんではなくて、自分の意志でやっていくってそれが自主性で、主体性っていうのはこれをしようと目的を自分で考えて決めて、行動し作り出していく。何を何のためにどうやるのかっていうところから考えて、そのことや結果に責任を持って対処していくのが主体性ですね。

そういう主体性を大事にするとか、人間とは何かっていうのを古来考えられてきたわけですけど、紀元前の古代ギリシャの都市国家スパルタとアテネってありますよね、あの時代にもスパルタは徹底的に教え込む、させる教育。対してアテネは本当に自由な、今おっしゃった自由とそれから主体性を大事にするということを哲学としてた。もともと教育学って哲学でしたからね。だから教育思想史の中でも両方が流れとしてありました。

それから保育では約180年前にペスタロッチの後、フレーベルが初めてキンダーガルテン(※3)という幼稚園をつくりましたよね。彼は、子どもというのは『種』のような存在だって、その中に自分から生きる力、主体的に生きていく力を持っている。その種を豊かな土の中に植えて水をあげて明るい太陽の光がそそぐように環境を備えていくと種は自ら育っていく、それが子どもなんだ、というのでキンダーガルテンと名付けました。ガルテンって庭、園(その)ですね。フレーベルの思想から来てるわけですよ。

教育要領では保育を『環境』による教育としていますが、目的を持った保育者の環境構成、自然や文化、友だち、大事なのは先生のほほえみや園の雰囲気ですね。そこで子どもたちが環境に関わって主体的に遊ぶ時、必要とすれば知識や技術も提供し、体験の中でしっかりと身に付けていきます。

日本は古来、子どもの思いを大切にしてきた国ですが、しかし明治維新の頃は西洋から遅れをとっていると、早く教え込んで西洋みたいに立派にならせようと焦ってた。

デベロップメント(development)という単語を『発達』という言葉に訳した。それは、設定された目的に対して矢をパッと発して一直線に目的に達して行くようなイメージですね。

デベロップメントというのは『包み込まれているものをほどいていく』とか『開発』という意味がありますね。ほどかれていくと中からその子の主体が出てくるんだっていう、そういう言葉の語意も持っているけれど、日本は発達っていうふうに受け取った。

その頃から義務教育も始まり、追いつけ追い越せとさせる教育、それこそ一斉教育で子どもたちを、受け身でただ先生の指示通りに動くという教育観が盛んになってきたんですね。

大正期には個性や自分の意志を重んじる教育もあったけれど、昭和の戦争で消え、戦後民主主義の中で見直されるようになってきた。幼稚園ではそのフレーベルの思想を倉橋惣三(※4)が更に深め、それを広めていきましたが、それでもその両方とも残ってきて、今『非認知能力』という数値で計れない教育の重要性が言われるようになったところですね。

広大の附属幼稚園では、SDGs、地球の環境や自然、社会や教育その他の持続可能な開発目標に関わる保育研究もしました。

でも私は、そこに至るまでに何があるかっていう事、『子どもとは何か』の原点を基礎に据えておくことが大切だと思います。

私は自分の子育てをして、長く保育に携わってきて一番感じた事があるんです。

自然は人間のあるべき姿、本来的にあるべき姿というようなものが生まれつき備えられていて、それは乳幼児の姿に、遊びに表されていることを感動をもって知りました。

人間に1年早産説っていうのがあるんですが、動物の赤ちゃんって生まれたらすぐおっぱい吸いにいったり立って歩いて走ったりするじゃないですか。人間は何にも出来ない状態で、歩くまでに1年かかるわけですよね。

人間だったらね、それこそすぐに「お母さん」とか言って「お乳をください」と(笑)、それくらい優秀であっていいはずなのに1年未熟な状態で生まれてくる。それは何故なのかって何かで私読んだんですけど、それは愛を感じ、愛することを学ぶためだって、だから何も出来ないから親が本当に手をかけ心をかけ触れ合ってお世話をしているうちに母親との愛の交流がその子の『愛』として育まれていくんじゃないかって。

赤ちゃんからすれば、泣いたら世話をしてくれる、お腹がすいたらおっぱいをくれる、という中で自分がこの人に受け止められている、愛されていると感覚的にわかってると思うんですね。そうした愛情の中に包まれている『安定感』。そして親に対する『信頼感』、人見知りするのは、もうこの人じゃなければっていう信頼感の表れですよね。その中で自分はこのままでいいんだっていう自分の存在を肯定する心ができる。だから生きていく基本の『自己肯定感』というのがそこで育くまれる。

そういう『愛』と『信頼』から赤ちゃんの心や感情が育まれ自立に向かって気持ちが立ち上がってきて、そこから自立性、主体性、自律性となっていくと思うのです。

それで今朝、私そういえば昔書いたよなと思って、プリントをあわてて鞄に入れて来たんですけど…。



ここに幼児期の特性と書いていますが、幼児期にはこういう特性があるなと思うんです。さっきの愛と信頼は3番のところでした。

そして1番のところの「幼児は探索心旺盛で活動的」とあるでしょ、自分が安定感を得たら早速子どもって動き始めるんですね。寝返りをしてハイハイをし始めたら、これは何だこれは何だってとにかく前進して世界を知るんですね。うちの子ども早くて8か月で歩いてましたので歩き始めてきれいな石ころを見つけたら拾って舐めてみようとするんですよ、とにかく舐めてみる触ってみる嗅いでみるじっと見ているってね、もう五感をフルに使って感性を働かせて、興味・関心・好奇心いっぱいに自分の世界を広げていくわけです。

その続きで「保育は好奇心を育てること」と書いてありますよね、保育は好奇心を潰すな、育てることってね先生、これ森先生の言葉なんですよ」

森「あ、そう。私が好奇心をと言ったんですね。よく覚えとるね(笑)」

仲渡「そうおっしゃったんですよ先生が、それをここに書いているんですけどね。

好奇心、想像性から遊びの創造が始まる。子どもにとっては遊びっていうのは生活、生きることそのもの、学ぶことそのものですしね。

以前、森先生はいわゆる遊びっていう言葉じゃない言葉が欲しいねっておっしゃったんですよね。それぐらい遊びというのは凄い体験、とにかくやってみる直接体験を通して生き方を身につけていってるんですね」

坂井「本当にそう思います。あの好奇心、遊びって言葉でひとくくりにしないでって」

森「またよう覚えとるね(笑)」

仲渡「それから4番目、好奇心の次は想像力ですね。

子どもにお月様はどこで寝るの?って言ったら「雲のおふとんで寝るんだ」って言ったり、あの蝉はミンミンて何で鳴いているのかな?って言ったら「お母さんお母さんて呼んでるんだね」とかね。とにかく子どもって素晴らしい想像の世界に生きることが出来るんですね。それはこの時期にしか住むことが出来ない世界。私たちはその想像力を働かせて物語をつくったりは出来るけれども、子どもはその想像の中に本当にその中に生きているから、住んでいる世界そのもが違うんですね。現実の世界と想像の世界を同時に一緒に住んでるっていうね。その想像力を働かせることによってより世界は広がっていく。自分からどんどん想像力を働かせて主体的にあれはこうじゃないか、これはこうじゃないかと、キラキラと自分で考えをふくらませていく。心情や思考も想像力で主体的にこうじゃないかと自分で決めていくっていうね。すべての子どもは主体的な力を本来持っているもので、こっちはそれを大切に失わないように、より豊かにと育んでいく側であって、こっちが与えなければできないものではない。人間の生きる力の原点、潰しては大変です。

それからルソー(※5)が「子どもは生まれた時は全て善である」「人の手にかかると全て悪になる」って言ってますよね、純な魂は『善』へ『真理』へ『自分の生命をより良く生きる方向』を探求していくのでしょうね。保育というのは子ども一人ひとりの存在の尊さに畏敬と慈愛の念をもって、子どもの感受性豊かな世界に共感しながら、その『善』を主体性を育んでいくのが保育ではないかと思っています」

坂井「子どもが現実の世界と想像の世界を同時に重層的に生きているって、本当にそう思います。大人になったら忘れて分からなくなるけど」

堀江「そうですね、それと主体性って生まれ持ってその根っこがあるものなんですね。ありがとうございました」




※1 広島大学附属幼稚園(沿革)

1966(昭和41)年/5月:広島大学教育学部附属幼年教育研究施設の創設に伴い研究園として広島市中区千田町に開園。

1967(昭和42)年/4月:附属幼稚園新園舎完成(建物2階に幼研施設)。

1987(昭和62)年/4月:幼研施設長森楙教授が園長を併任。

1990(平成2)年/3月;東広島市に新園舎落成、広島市中区千田町より移転。

1993(平成5)年/4月:3歳児学級開設。

1999(平成11)年/10月:太陽光発電設備設置。

2007(平成19)年/12月:森のビオトープ造成。

2013(平成25)年/3月:教育実習棟を設置。

2016(平成28)年/4月:文部科学省研究開発学校に指定される。

2017(平成29)年/2月:ユネスコスクールに登録。

※2 幼研施設

正式名称:広島大学大学院人間社会科学研究科附属「幼年教育研究施設」

教育学ならびに心理学の立場から幼年教育の総合的・実証的研究を推進するため、昭和41年4月広島大学教育学部に設置された。

それに伴い広島大学附属幼稚園がその研究園として設置認可された。

※3 キンダーガルテン Kindergarten

ドイツの教育家フリードリヒ・フレーベル(1782~1852.ドイツの教育家)が,遊びを通して幼児の心理的陶冶をはかる学校として,1840年ブランケンブルクに創設した幼稚園。この「子供の庭」という原名には,庭に生える植物のように子供たちが自由に育つための環境という印象を広く認識させたいというフレーベルの願いがこめられていた。(WEBコトバンクより:出典/ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典)

※4 倉橋惣三

倉橋惣三(くらはし そうぞう)、1882年静岡生まれ、日本の児童心理学者、『育ての心』『子供賛歌』など著書多数。

フレーベル主義に影響を受け、保育と幼児教育の発展に尽力。戦後は教育刷新委員会の委員を経て1948年に日本保育学会を創設。「近代幼児教育の父」「日本のフレーベル」と呼ばれるほど日本の近代保育へ多大な功績を残した。(一般社団法人倉橋惣三協会公式サイトより)

※5 ジャン=ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau

人間は生来善なるものであるというルソーの確信が前提にあることは言うまでもない。その生来の性質を守るためには、「人間の教育」は消極的でなければならないのである。

(WEB core.ac.ukより 出典/ルソーの「消極教育」論について―教育方法としての「自由」の適用原理― 木村吉彦 上越教育大学大学院学校教育研究科 教授 元上越教育大学附属幼稚園長)

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